おむぅの日記

主に今日の出来事、フィギュアやドールのこと、映画の感想、ひとり日帰り小旅行などを綴ります。そして時折知ったかぶりもコキます。

岡本太郎は偽者である

芸術は爆発だ!」で有名な岡本太郎ですが、これはどういう意味かというと岡本太郎はこう言っています。

「二つの対立するものがぶつかり合って爆発して宇宙へ広がっていくこれが芸術です」

つまり岡本太郎が提唱する対極主義というやつです。

対極主義とは何かというと岡本太郎はこう主張しています。

「芸術家の基本的な姿勢とは対立する二つの要素をそのまま共存させることである」

一見立派な主張に聞こえますが大したことではありません。

これが岡本太郎が対極主義だと言っている作品です。

世間では岡本太郎は色音痴だと言われているだけあって、ご覧のように原色ギトギトで色彩的にも造形的にも決して美しいとはいえません。

さてここで美しいという言葉が出ましたが、岡本太郎は美しいと綺麗は正反対だと言っています。

「綺麗というのは人に良く思われようとして媚を売っているが、美しいというのは自分の中の美しいものだけでなく汚いものも醜いものもすべて出しているのです。したがって綺麗と美しいは正反対です」

これが岡本太郎の主張ですが、常識的には綺麗がレベルアップしたものが美しいであり、綺麗の延長線上に美しいがあると考えるのが普通です。

もし岡本太郎が言っていることが本当だとするなら、じゃあ綺麗な人は人に媚を売っているのですか?見た目だけでなく考え方や生き方も素晴らしい人を美しいというのです。そういう人のどこが汚くて醜いのですか?

それと岡本太郎は芸術とはこうでなければならないと言っています。

「芸術とは綺麗ではいけない。心地良くてはいけない。上手くてはいけない」

これも常識とは逆のことを言っています。

たとえば綺麗な風景を見たときに綺麗だと思って感動してそれを伝えるためにそのモチーフで綺麗な風景画を描くわけだし、それを見た人が心地良く思い上手いなあと思って感動するわけです。

そしてこれが岡本太郎の代表作である「太陽の塔」です。

ご覧のようにどう見ても造形的に悪趣味としか言いようがないし、ウルトラマンっぽく見えます。

それと「座ることを拒否する椅子」という作品があります。

ご覧のようにかなり座りにくいというかほとんど座れなさそうに見えますが、だからなんだというのでしょうか?これのどこが芸術なのでしょうか?

それと僕は岡本太郎の著書である「自分の中に毒を持て」を読んだのですが、その中にこんな一節があります。

「私は普通の会社員が昼休みに、俺のやりたかったことは本当はこんなことじゃなかったんだよなあと言っているのを聞くと気の毒になる」

そしてこう続けています。

「人間は安全な道、安定した道、平凡な道を選んではいけない。あえて危険な道、本当に自分がやりたい道を選んでそこでギリギリの生活をしてこそ生き甲斐がある」

しかしほとんどの人が平凡な仕事をしているから人間社会が成り立っているわけだし、安定した道を選ぶのはその人の自由であり、その人の人生観に基づいた生き方です。

岡本太郎の意見を聞くと、じゃあ人間は皆んな芸術家かエンターテイナーにならなきゃいけないのか?それじゃあ人間社会が成り立たないじゃないか?と思わざるを得ません。

なので岡本太郎は人をバカにしています。

ちなみに大島渚岡本太郎のことをこう言っています。

「僕は岡本太郎という人は作品的にも人間的にもまったく認めません」

僕もまったく同感です。

岡本太郎を尊敬していて岡本太郎の作品を素晴らしいと思っている人は岡本太郎という偽者に騙されているのです。

僕は騙されません。皆さんも騙されないように気をつけてくださいね。